UTRECHT | 東京都渋谷区神宮前5-36-6 ケーリーマンション2C | info@utrecht.jp | 03-6427-4041

mono.kultur #37 James Nachtweyインタビュー(抜粋)

mono37_c

mono37_1

mono37_2

mono37_3

mono37_4

mono37_5

mono.kultur #37
JAMES NACHTWEY: SHARDS OF TIME
“To turn our backs is a form of acceptance.”

ユトレヒトが国内ディストリビューションを手がけるドイツ発のインタビュー雑誌mono.kultur。数年前から、フィーチャーされた作家に興味をもって頂くきっかけになったら…と、イントロとインタビューの一部を和訳した冊子をセットで販売しております。最新号はジェームス・ナクトウェイ。こちらの和訳をウェブでも掲載することにしました。彼の活動や作品への入り口になってくれたら、とても嬉しく思います。

 

mono.kultur #37 ジェームス・ナクトウェイ特集
インタビュー:カイ・フォン・ラベナウ
日本語訳:宮城太


商品詳細:http://utrecht.jp/?product_cat=james-nachtwey

 

++

ジェームス・ナクトウェイは、私たちが戦争写真家に対して持つ先入観を全て否定するような存在だ。パリで会ったとき、私の目の前にいたのは、落ち着き控えめながらも、好奇心に満ち情熱的な、人間味に溢れる男だった。その姿は私の想像を裏切り、強い印象を残した。彼は低い声で、何度も考え事をするように言葉を止めながら、まるで説得するように注意深く言葉を選びとって話す。その静かな強さと注意深さこそ、彼が生涯を捧げる仕事、私たちの世界で起こる戦争や災害を記録すること、と繋がってゆくのだ。
写真をできる限り多くの人へと届けようとする一方で、ナクトウェイ自身は、注目を浴びることを好まない。彼は写真そのものが観るものに語りかけるべきであると考え、自身の作品について、そして戦争体験について語ることはほとんどない。それでも、彼は現代におけるもっとも優れたフォトジャーナリストの一人であり、その作品は数々の雑誌に掲載され、多くの賞を授与されてきた。
ナクトウェイという人物とその作品に関連性を見つけることは時に困難で、その活動の全体像を把握することも難しい。彼は30年以上に渡って人間が互いに負わせ続けた苦痛や災禍を記録し続けてきた。その写真は、時に目を逸らしたくなるものであり、一度見たら忘れることができないものだ。それなのに、同業者の多くと違い、ナクトウェイの姿は彼が見て体験してきた痛みの記憶からは無縁のようにも見える。無傷というわけではない。それでも、彼の存在には苦々しさがなく、いつも平穏な空気を纏っているのだ。
ナクトウェイの作品はまた、世界各地で起こる紛争の変遷そのものでもある。1980年代初頭の北アイルランド問題から、中南米の国々で起こった革命、共産勢力の崩壊から1990年代にアフリカで起きた大飢饉、螺旋のように繰り返されるムスリムと西側諸国との対立、イスラエルから9/11、そしてイラク戦争…。
ジェームス・ナクトウェイは、自身を目撃者だと説明し、また、常に存在を消そうとしてきたと言う。これこそ、矛盾するようだがフォトジャーナリズムの神髄でもある。観察しながらもその現場に能動的に関わり、そこに居ながら見えない存在となり、私たちをその現場に、一歩下がった場所に導く。時にナクトウェイは、信じられない程の近さで被写体を撮影し、見るものに緊張感を与える。私たちはそこに、人々の「生」を写した写真ではなく、「生」そのものをみるのだ。まるで、声なき声を聞いているような体験でもある。
彼の写真は戦争の風景を写し出すが、そこには戦争における活動や戦闘中のイメージはない。写されるのは、暴力の被害であり、失われたものと残された傷だ。強い政治性を持ちながら、人間的かつ誰もが知覚可能な喪失と傷。問題の複雑さを否定することなく、誰もが理解できる言語に翻訳する。彼の写真は、破壊と苦しみを記録しながらも、わずかな希望と尊厳をたたえている。それらは緊急性と誠実さをもって見るものを惹きつけ、語りかけ、挑む。人間がもつ最も残酷な衝動を明らかにし、もうひとつの、より良い選択肢があることを教えてくれる。私たちの失敗を見せることで、私たちが持っているはずの信念やモラルの在処を教えてくれる。写真は、目の前の出来事を見据えながら、決してそれだけが全てだとは認めない。
ジェームス・ナクトウェイは強い信念と深い同情心をもって動き、仕事としてではなく、大義のためにその人生を写真に捧げている。きっと、その明晰な目的意識とイメージの持つ力に対する揺るぎない信頼こそ、彼を誰よりも先に、私たちの多くが逃げ出すような最前線へと向かわせる。そこで彼は、私たちが見たくないと思う物事にカメラを向ける。
ナクトウェイのイメージが挑戦的であることに異論はないだろう。地上で起こる現実から目を逸らさずに写し出される力強いイメージ…政治が人々の暮らしに与える影響をこれほど強く伝えるものはない。それらは私たちの思い込みを覆し、私たちの目をより広い世界に向けさせる。

 

–––

最初期の頃について伺います。美術史と政治学を学んだあとに、曖昧に写真家という職業を選ぶことなく、明確に戦争写真家になることを決めていたそうですが、その選択はとても興味深く思えます。

そうですね。

 

なぜそう思うようになったのでしょうか?

ベトナム戦争と公民権運動は、20世紀後半同時に起きた、アメリカの歴史において最も重要な出来事のふたつでした。そのころ私はまだ学生で、自然と外の世界のことに敏感になり、理想というものを持ちはじめた時期だったのです。私は、報道されるイメージに強く影響されるタイプでした。しかしそれらのイメージは、私だけではなくて私の国にも多大な影響をもたらしました。イメージは私たちの共有意識を形成し、政治家や軍事関係者の修辞的な物言いを覆す力を持っていました。イメージが反戦運動を加速させ、人種差別に明確に対抗したのです。
私は自分がイメージに強く左右されていることに気づいていましたが、写真家になろうと決意するまでには随分時間がかかりました。四年もの間、沢山の本を読んで勉強したのに、それでも自分の人生をどうして良いのか判らずにいました。知識ばかりが増え、本当の修練はこれから始まるんだとばかり思っていました。次第に、本を読むだけでなく、広大な世界に飛び込み、そこに身を置き、生きると言うことについて学びたいと思うようになりました。

だから、優秀な大学(卒業生の多くは金融業者、弁護士、医師になりました)を優秀な成績で卒業したあと、商船に乗り込んで皿洗いの仕事をしていました。海に出ることは、とてつもない冒険でしたから。船上では多くの個性的な人々に出会うことができました。外国でひどい現実を目の当たりにもしました。海は生命に満ちあふれ、圧倒的に美しかった。時には恐ろしくもあり、時には不気味な程にモノトーンに世界を染め上げます。360度、見渡す限りの水平線、その中心に一週間もの間目印もなく存在して、太陽と月の軌跡を遮るものもない。クリアな空気、そして数えきれない程の星々。そのような体験を通して、自らの尺度を明確にすることができました。人生の始まりとして、とてもよい時期でした。

このように、ヨーロッパ行きの船に6ヵ月に渡り乗り続け、十分な資金を貯めたのです。すでに美術史を習っていたこともあり、渡欧した際は美術館にも欠かさず行きました。そして、プラド美術館でゴヤを見たとき、私の人生は変わりました。『戦争の惨禍』のオリジナルエッチングはあまりにも衝撃的でした。それらは写真の発明以前に作られていながら、戦争の野蛮さを克明に、直接的に描いており、ベトナム戦争の記録写真を強く連想させたのです。当時の私は、大きな影響を受けました。ゴヤはカメラを使ったことはないでしょうけど、私は、彼が戦争写真家の祖であると思い始めるようになったのです。それが、戦争写真家になろうと決めた瞬間だったと思います。

 

おぞましい作品群ですよね。

はい。それらは、私がベトナム戦争について考えていたことを表現しているように見えたのです。ベトナム戦争の記録写真のもつ普遍性が、ゴヤのエッチングと重なったときに気づいたこと…写真はニュースとしての役割だけでなく、人類の意識の深層へと潜り込み、長い年月を経てなお鮮明なイメージを残すのです。

そうして私は、戦争写真家になろうと決意しました。しかし写真の経験はゼロでした。カメラを持っておらず、買える程の資金もありませんでした。兄が貸してくれたニコンで、ゼロから勉強しはじめたのです。

図書館で本を借りては、ゾーンシステムの仕組みや現像薬品について、そして構図のコツなどについて読み、暗室をレンタルし、独学でフィルムの現像とプリントを学びました。ケンブリッジに住んでいた兄のアパートに転がり込んで、しまいにはキッチンの一角に暗室を作ってしまいました。倉庫で働き、夜はトラックドライバーをして生活を支えていました。冬の間は、ちゃんとしたブーツが買えずにいたので、クリスマスプレゼントにもらったクロスカントリースキー用の靴を履き、父のお下がりの大きすぎる古いコートを羽織って暮していました。乗っていた車は、父がオークションで50ドルで落としてくれたボロボロの郵便配達車。本を買うお金はなく、本屋に行っては棚の前で偉大な写真家たちの作品集を眺めていました。ロバート・フランクにユージーン・スミス、アンリ・カルティエ=ブレッソン。見終わったら棚に返す…そうやって、何度も通いました。写真学校に通う経済的余裕もなく、本屋が巨匠から写真を学ぶ、無料の大学となったのです。

アメリカでも特徴的な場所であるニューイングランドで、その地域の暮らしを撮影しはじめました。写真家になる練習として、短期のドキュメンタリー写真撮影を自らに課題として課したのです。メーン州ケネベック川の丸太運搬業者、建築家チャールズ・ブルフィンチがデザインした19世紀の教会、マサチューセッツ州ベッドフォード近隣の浅瀬で真冬に行われるトロール漁…。もしもボストンで何かしらイベントがあれば撮影に出かけ、編集者に提出するのだと自分を信じ込ませてシャッターを切りました。そして、写真に付随するテキストを書き、その地区の雑誌に掛け合いました。

しばらくして、Time誌のボストン支局にポートフォリオを持って行きました。局長がそれを気に入ってくれて、ニューヨークの本社で写真部門の責任者と会えることになったんです。彼も気に入ってくれて、ボストン支局で仕事を貰えることになりました。最初に請け負った取材のひとつは、サウス・ボストン高校の人種によるクラス分けの廃止について。それはボストンの近代史においても重大な瞬間でした。アメリカ独立革命の生まれた場所であり、リベラル思想を誇りとし、優秀な大学が多く存在し、アメリカのアテネと呼ばれる街で、人々が潜在的な人種差別主義に真っ向から立ち向かいはじめていたのです。トラウマがあり、怒りがあり、後ろめたさがありました。全国的にも注目を集めていた事件に集まったベテランの写真家たちに混じって、私もその事件を撮影していた。それからTimeの仕事が定期的に入るようになり、写真だけでもそこそこの生活ができるようになりました。しかし、毎日撮影ができるような、より多くの仕事が欲しかったので、新聞社に職を求めることにしました。アメリカ西部や南部など、私がまだ知らなかった世界を見てみたいと思っていたので、アルバカーキ・ジャーナルからオファーを受けた時には、すぐに荷物をまとめてニューメキシコに向ったのです。

ほとんど予備知識もないままに引っ越したのですが、ニューメキシコは私が見た中で最も美しい場所でした。多様な文化と最先端の科学技術、そして自らの伝統を守りながら暮らす先住民の人々…。スピリチュアルな力が集まっているよう、な大きな流れを初めて感じました。

日刊新聞の写真家として基本的失敗を幾つも犯し、時にはいくつかの、それまで知られていなかった撮影トリックも見つけました。専属の写真家は三人だけだったので、編集者は私の働きぶりを知っていましたし、ちょっとの失敗は多めに見てくれました。

仕事の方法はどんどん自発的になってゆき、自分で見つけた取材対象を追うようになっていました。レイアウトも自分でデザインし、テキストや見出し、脚注も書いていました。新聞の仕事は、ストーリーテラーとして考えるチャンスを私に与えてくれ、それはボストン時代とは大きな違いでした。

四年が経ったころ、夜中に目が覚めて、ふと気づいたのです。もう学ぶべきことは学んだ、次のステップへ進むべきだ、と。次の日出社して、仕事を辞めました。持ち物を売るか譲るかして、フォルクスワーゲン・ビートルに荷物を詰めて、大陸を横断してニューヨークに向ったのです。

ポートフォリオを持っていろんな所をまわるなかで、ハワード・チャプニックという素晴らしい人間に巡り会えました。彼は、ブラック・スター・フォト・エージェンシーの代表であり、その業界ではもっとも尊敬されていた人間の一人でした。私の写真に何かを見いだしてくれたのでしょう、彼は私を所属写真家として迎え入れ、強く勇気づけてくれました。すぐに、北アイルランドでボビー・サンズがハンガーストライキを始めたのです。彼が衰弱してゆくなか、ベルファストやデリーの街では暴動が起きはじめていると知り、私は飛行機に飛び乗りました。これこそ、私が過去十年準備していたことが実を結ぶ機会なんだ、と思いながら。

 

NICARAGUA, 1984

独学だとは知りませんでした。師と呼べる人もいなかったのですか?

師と呼ぶ人々のクラスやワークショップではなく、彼らが出版した作品集から学びました。じっくり集中して考えてみれば、写真は自ら語り始めるもの。作品集に収められた写真は、インスピレーション源であり、そして越えなければならない壁でした。同じようなモチーフを撮っていても、写真家によってアプローチは大きく変わります。それらのイメージをウェブサーフィンしながらではなく、手に取って長い間繰り返し見続けるということを何年も繰り返しました。常に疑問を投げかけ、彼らがどのようにその写真を撮影したのか、彼らになった気分で想像しました。意味を読み取り、写真の核にある精神が立ち現れる瞬間を待ちながら、写真の理解を深めていったのです。私には、多くの師と呼べる写真家たちがいます。ただ、彼らは私がそう呼んでいることを知らないでしょうね。

 

その師と呼ぶ人々の誰かに会ったことはありますか?

カルティエ=ブレッソンとは何度か会うことができましたが、ユージーン・スミスやロバート・フランクと会ったことはありません。私に大きな影響を与えた写真家のひとりであるダニー・ライオンには会えました。彼は、アメリカの社会状況やサブカルチャーについての長期に渡るドキュメンタリーで知られる写真家です。彼の『Conversations with the Dead』は、写真集の歴史において、最もパワフルな一冊ではないでしょうか。1986年にマグナムに所属したときには、セバスチャン・サルガドとジョゼフ・クーデルカを始め、多くの素晴らしい写真家とも会うことができました。

 

始めの頃は、誰しも尊敬する誰かの真似をしながら自分のスタイルを会得してゆくものですが、他の写真家の作品を精査しながら、自分のスタイルを獲得することについて、どこまで意識的でしたか?

その時、どれだけ意識的だったかは定かではありません。振り返ってみると、写真家たちの作品に見た手法を真似たりしていたと思います。最初はそんな模倣のパッチワークだったのかもしれませんが、常に自分自身の視点を見つけようとしていました。特定のモチーフを決めてそれに取り組み、十分な量の写真を撮る…それは、時間と修練を要するものです。何もない場所からは何も生まれはしないのです。どんな作家にも、影響を与えた先駆者はいます。そういう風にして写真家は成長し、そして写真そのものが進化して行くのです。

私は天才ではありません。写真は私にとって難しいものでした。私の経歴を振り返っても、写真やいかなる美術にも適正であったとは思えません。でも私は決心し、きっと写真家になるのだと信じていました。自分を何度も疑いましたし、いまでも疑いますが、写真に、そして自分自身に失望したことはありません。それでも、かなりの労力を要したのも事実です。

 

ではなぜ、書く方のジャーナリズムではなく、写真を選んだのですか?

私はとても沢山の本を読んできました。いまでも、毎日欠かさず本を数冊同時に読み進めます。でも当時私はすっかりイメージの力に感化されていたのです。歴史の重要な瞬間に本質的な影響を与える、もの凄い力に。間違った言説を否定して、革命を引き起こした。時間が経つにつれ、より深い意味で言葉の力を理解できるようにもなりました。でもあの時代のあの瞬間に、写真は私を選んだのです。

 

写真のなかでもフォトジャーナリズムは特異なジャンルです。扱うスキルも、例えばスタジオ写真や広告写真とはまるで違う。急激に変化しつつ危険な状況に身を置き、そのような状況で意義あるイメージを切り取らねばなりません。そのような環境に適応できるような、特殊な資質を必要としています。そのような資質を獲得したのは、いつごろだと思いますか?

訓練と、そして経験から学ぶしかありませんでした。フォトジャーナリズムが他と違い、挑戦的で特異である点は、写真家のコントロールの及ばない環境に向き合わなければならないこと。コントロールできるのは、自分自身とカメラだけ。それら以外は、すべてそれぞれの衝動のもと動いている。環境が自分に同調してくることはないので、周りで起きていることに自らを同調させるしかないのです。それは、即興的で突発的な判断を要求します。勘と集中力、タイミングと予知の感覚も必要です。混沌とした暴力的な瞬間においては、ものごとは一瞬のうちに起き、あっという間に過ぎてゆきます。後には何も残らない。それは、とてもミステリアスな現象とも言えます。

 

目の前の人に、ちょっと左に動いて、なんて言えないですしね…

写真家自身が、右に動くしかないですね。

 

NORTHERN IRELAND, 1981

 

最初の取材先として、当時世界的に見ても深刻な紛争が勃発していたアイルランドに行ったというのは、アルバカーキにいたあなたからすれば、がらりと世界が変わった経験なのではないですか?紛争地域の中心にいるというリアルな体験は、想像していたものとは違っていましたか?

すぐに飛びついたわけではなく、少しずつそこを目指していたのです。戦争写真家になろうと決めてはいましたが、独学で写真を学びはじめてから初めて戦場に降り立つまで、十年を要しています。何年もの間、毎日のようにベトナム戦争時の新聞や雑誌に掲載された報道写真を研究していたのです。もっとも、ほとんどは無記名でした。当時の報道写真家たちは掲載にあたりほとんどクレジットされていませんでしたから。偉大な戦争写真家―ロバート・キャパ、ラリー・バローズやユージーン・スミス―が写真集を出版すれば、それらを精査しました。写真に写し出された状況の中に自分自身を投影しつづけ、そして確固たるゴールを見据えるという修練を、十年に渡り続けてきたのです。

戦争や紛争を撮影した写真は、たくさんの人々の意見に影響を与え、変化の決定的な要素になり得る、社会に重大なインパクトを与えるもの。そのような大きな責任を抱え込む前に、自分自身が社会に貢献できるような資質を持っているのか、しっかり考える必要もありました。

戦場に向かう用意なんてできるはずもありませんが、それを目標に努力したからこそ、1981年に北アイルランドでの撮影を始めたときは、とても自然な行為であるようにも思えました。本能的に何をすれば良いか、どう動くべきか判ったのです。混沌とした暴力的な状況のなかで、私は特定の人々やできごとに集中することができた。ただそこにいた、ということを証明するような無個性なイメージは撮りたくありませんでした。人間社会の隠れた一面を明らかにするような瞬間を発見することに、集中し続けました。写真の修練とはつまり発見することであり、目撃者として、ドキュメンタリー写真家として、現場で現代史を身をもって学ぶことなのです。そこで、自分がすべきことを見つけたような気がしたのです。

 

アイルランドには、雑誌の仕事で行ったのですか?

そうではありませんでした。

 

後ろ盾となる出版物もなく、ベルファストに着いた時はどう行動したのですか?

ジャーナリズムの根本行為は、飛行機を降りてたらすぐに取材すべき場所に向うこと。簡単そうに聞こえますが、とても難しいことです。だから、ニューヨークを経つ前から北アイルランドの地方紙を査読し、街のどこで何が起きているのか、あらかじめ見当をつけていました。私は、当時世界で最も多く爆撃を受けたホテルと知られ、そして多くの報道関係者が滞在していたヨーロッパ・ホテルにチェックインすることに決めました。朝、コーヒーを飲んでいると、多くの同業者に合うことができました。初めて会う人ばかりでしたが、戦争写真家は同業者には基本的にとても親切なのです。経験を積んだ写真家たちは、新人を喜んで迎え入れます。その時は、Time誌の専属写真家ビル・ビアース、北アイルランドで突出した活動を見せていたマグナムのジル・ペレス、そして同じくマグナムのピーター・マーロウやイアン・ベリー、マイアミ・ヘラルド紙のマレー・セイル。私の足がかりを作るために尽力してくれた彼らには、今でも感謝しています。だからこそ、その精神を受け継ぎ、戦地で会った若い写真家たちにも同様に接するようにしています。戦争写真家とは、ノマドの一群、もしくはゆるやかに繋がる家族のようなもの。私たちは、「自分のしたことは、いつか自分に返ってくる」をモットーに生きているのです。

 

フリーランスのフォトジャーナリストの世界は競争が激しいものだとばかり思っていました。

競争は激しいですが、優れた写真家たちの競争は健全なものです。またそれは、他の写真家との競争ではなく、自分自身との競争であり、写真家としてのみでなく人間として最善を尽くすこと。同業者と繋がるだけでなく、目撃している悲劇の渦中にいる人々と繋がろうと努力することです。戦争写真家とは、慎ましい職業であるべきなのです。

ニューヨークやパリの出版社に行けば人々は他社との競争に神経をすり減らしているけれど、戦場では、私たちはみな共にあることを実感しています。そして私たちが取材しているできごとは、私たちの価値観では計りきれないほどに大きなものなのです。それに、皆それぞれ感性は違いますから、でき上がるイメージも自ずと変わってきますしね。これまで出会った写真家たちは、非常に献身的で、知的かつ繊細、そして楽しい人々です。そのような人々と係わり合えることは素晴らしいこと。私がこの仕事を続けられるのも、そのような人々への敬意と、そして私たちの間で育まれた信頼関係があるからこそ。

 

でも、いつか若い写真家に仕事を奪われるという不安はないですか?

もし私の仕事を誰かが奪ったとしても、それは彼ら自身の力で獲得したもの。これまでのキャリアのなかでも、特筆すべき、多彩な才能を持った若者たちが出てきました。そのように仕事を続けて33年が経ちますが、まだまだ多くの写真家が活動する余地はあるようですね。

 

とても寛容な姿勢ですね。

幸運なことに、Timeやナショナル・ジオグラフィックなど、素晴らしい雑誌と良好な関係を築けています。自分と編集者の間に、強い信頼関係ができたことは、とても重要です。それは誰かから与えられたものではなく、自分で勝ち取ったもの。フォトジャーナリズムは民主主義的な業界です。どこの学校を出たか、そもそも学校を出たか否かを気にする人はいません。見た目、服装、コネも関係ありません。どのような作品を作っているのかということだけが重要なのです。きちんと伝えることができれば、自分の居場所を獲得できます。素晴らしいことではないでしょうか。

 

まるで、理想の職場のようでもあります。

現場では、多くの悲劇を、多くの悲しみを目にします。ひどい仕打ちを受ける人々を目にします。時に、目の前のことに感情的にならずに破壊行為の真っ只中に身を置くことは不可能なように思えます。写真は、介入以外の何ものでもありません。一般の人々に認識してもらうために、紛争の人的被害を理解してもらうために、決定権を持つ人々に慎重な決定を促すために。イメージは、修辞やイデオロギーや喧噪を越えて、そこで実際に何が起きているのかを、人々に伝えることができるのです。


商品詳細・ご購入:http://utrecht.jp/?product_cat=james-nachtwey